桂米朝『私の履歴書』を読んで


20代の頃、当時一緒にジャスのレコード屋で働いていた友人が、自伝は読むが伝記は読まない・・・というような内容のことを言いました。今までそんなことを考えたこともなかった私はちょっと驚きましたが、でもすぐ彼女の言わんとしていることは理解できると感じて、なるほど、そういう考え方もあるのか・・・と、とても新鮮な思いがしました。


さて、今日は落語のお話です。今年の春、人間国宝の桂米朝さんがお亡くなりになりました。NHKのクローズアップ現代でも取り上げられ、その後ETVで特番が組まれたので、その両方をしっかりと拝見いたしました。追悼番組にこの感想は本来そぐわないかもしれませんが、両方ともいい番組で、とても面白かったです。

残念ながら米朝さんの落語を生で拝見したことはありません。一番最初に通しで見たのは、2008年か2009年にNHKでやった『はてなの茶碗』です。ちょうど朝ドラで『ちりとてりん』をやっていた頃のことです。『ちりとてちん』を見て「落語って面白いものなんだな~」と思いました。

そんな私に、米朝さんの『はてなの茶碗』は衝撃でした。「落語って面白いものなんだな~」から、「落語ってなんてすごいものなんだ・・・!」に感想は一変。これはもう、ほとんどひとり芝居の世界です。しかもめちゃくちゃ完成度の高い。いったい落語家とは、どのくらいの人々を一回に演じ分けることができるのか・・・しかも、ずっとそこに座ったままで場面はどんどん変わっていきます。心底驚いた瞬間でした。

そしてそれからすぐ、その時チケットの手に入った桂文枝(当時・三枝)さんの独演会を見に行きました。これはこのブログでも記事にしております。古くから伝わる演目と、新しく作られた創作落語とがあるらしいということを知ったのはこの時です。米朝さんの『はてなの茶碗』は古典落語で、文枝(当時・三枝)さんのは新作落語というものでした。

またその頃から、Eテレの『日本の話芸』などで落語がやっていると時々見るようになりました。これで、江戸の落語と上方の落語はテイストがどうも違うらしい・・・ということがうすうす分かってきました。(上方落語の演目が、江戸では別の名前・・・というものもあるようです。例えば『はてなの茶碗』は、江戸では『茶金』という演題なのだとか。)

また、記憶に新しいのは趣味Do楽の『落語でブッダ』で、これなど毎回欠かさず録画して、ワクワクしながら見てました。今でもそのままずーっとやってくれればいいのに・・・と思っているくらいに面白く、こちらは江戸と上方の両方が混じった番組でした。なるほど、落語って全部同じではないようです。

桂米朝さんは、上方落語を復活させた功労者ということになっています。米朝さんがプロに弟子入りした時分、関西で活動する噺家さんの数はとても少なく、また高齢化していたのだそうです。落語は口伝の芸ですから、それを伝える人が減り、また受け継ぐ人が減るとなれば、廃れていく運命はまぬがれません。伝える人が少なくなっても、学びたい人が多ければ伝わりますが、若い人は漫才に夢中という時代だったのだそうで、大好きな落語がなくなってしまうかもしれない大ピンチ。米朝さんは古くから伝わる話を掘り起こし、そこに描かれる当時の風習や風俗を理解するための努力を重ねました。『私の履歴書』には、そのあらましが本人の手により書かれています。
 
今、残り少なくなった我が人生を振り返ってみると、自分のことながらつくづく妙な人間だったと思う。以前、落語作家の小佐田定雄さんがこんなことをいっていた。「米朝という人は上方落語を復興するために天から遣わされたのではないか」と。上方落語の行く末を気に掛けてくれる神様がいたらまことにのどかな世界で、ぜひそう願いたいものだ。それはともかく、こと落語家になった点についてはまったく悔いはない。 
(『私の履歴書』日経ビジネス人文庫 214ページ引用) 

また、文庫版あとがきにはこのようなことも書かれています。
 
この度、拙著が文庫本化されるにあたり、本稿を読み返してみましたところ、「六年前に、ようこれだけの量をまとめておいたもんやなぁ」と、ホッと致しました。胸をなでおろすことしきりでございます。 
(『私の履歴書』日経ビジネス人文庫261ページ引用) 

ご自身が古いものをもう一度復活させるのに苦労されただけあって、見聞きし体験したもの、知っていること、それらを書き残しておくことの意味をよくご存知だったことでしょう。 だから、というのと、今という時代の幸運もあって、米朝さんのDVDやCD、本はたくさん残されています。

そういえば中古レコード屋にも時々、音楽のレコードにまぎれて落語のレコードが入ってくることがありました。枚数はごく少ないものだったし、誰の何が・・・ということまでは覚えていませんが、落語のレコードは右から左で店にはほとんど留まらなかったという記憶があります。20代の頃に働いていたわけですが、お客さんは40代以上の方がほとんどでした。面白いもので、自分がもうその年齢になり、興味も当時と変わってきました。今なら、ジャズのレコードと一緒に落語の1枚を買う人々の気持ちも、ちょっと分かるような気がします。

もうひとつ、本の中に深く印象に残る言葉がありました。米朝さんがご自身のお師匠さんのことを書いた部分です。お弟子さんに稽古する時は、たとえ自分はアレンジを加えてやっている演目であっても、原型に戻して教える・・・というエピソード。
 
「(前略)変えたのにはそれなりの理由があるが、君らには原型に戻して教える。将来は君たちも自分の考えで変えていったらいい。今はとにかく元の姿をきっちり覚えることだ。」 
(『私の履歴書』日経ビジネス文庫87ページ、桂米団治の言葉として書かれた部分を引用)

『私の履歴書』は2日間で読み終わり、今は『一芸一談』を読み始めました。こっちは2日で読了とはとてもいきません。何しろ文字に起こされた話し言葉の関西弁に手こずっています。『一芸一談』は対談集です。言葉のリズムに慣れるのも、少々時間がかかりそうです。大昔、江戸で上方の落語が浸透しなかったのは言葉の壁があったから・・・という話も目にします。反対に、米朝さんが全国に広く知られ大成功を収めたのは、「それはわかりやすくということを多少考えてやってるから」(『私の履歴書』日経ビジネス人文庫、235ページの対談から引用)ということの賜物なのでしょう。

伝える努力、残す努力、盛り返そうという熱意、は実を結びます。小さいことを面倒がらずにコツコツとやっていくと、想像をはるかに超えたとんでもない大きさのものが出来上がったり、あるいは、思いもよらぬ遥か彼方の地点まで、その身を運んでくれるのかもしれません。

そして本人の手によって語られるその人生は、「さぞ大変だったでしょう」なんてことよりも、「えらい面白かったでしょうねぇ」と言いたくなってしまうほどで、与えられた生を生ききるということのワクワクや、一人の人間が一生のうちにできることの多さを教えてくれるものでした。米朝さんの『私の履歴書』は、桂米朝の自伝でありつつも、同時に上方落語のお師匠さん達の伝記でもあるような気がします。

ところで自分のことを思い返すと、福岡で『ちりとてちん』を見ながら、東京に戻ったら寄席にも行ってみたい・・・と思っていた気持ちもすっかり忘れてしまっていて、まだ実行に移しておりません。チラチラとその気持ちが湧き上がっているのを感じますが、出かける勇気はいつごろ出てきてくれるでしょうか。自分自身に、Just Do It!とハッパをかけたい気持ちがします。

こんな時、江戸っ子なら「つべこべ言ってねぇで、さっさと出かけな!」ですが、上方なら「そらもう、はよ行ったらよろしいがな」なんて感じになるのでしょうか?繁昌亭で面白い落語を見たという父が羨ましくてたまりません。(まぁ、こちらは大阪での話。)

”そんなんあんたこっちの芝居見たら、娑婆の芝居やアホらしくてもう見とられしまへんで。名優はみなこっち来てんのやからなぁ。”  
(地獄八景亡者戯より聞き書き)

大作『地獄八景亡者戯』に日本人の生死観のユニークさを思いつつ、落語の面白さに触れる機会をたくさん残してくださった米朝さんに感謝です。


 

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