お仕事遍歴(10代から30代まで)

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ケニー・ドーハム
リー・モーガン
バルネ・ウィラン

自己紹介の欄にはとても書ききれないけど、いつかちゃんとした形で書きたいな~とは思ってました。でも、なかなか書ききれなくて放置してた。あまりにもいろんなことやってきたので、それを書くとなるとどうも面倒くさくて(笑)。

でも、書いてみたらなかなか面白かったです。やりたいことだけやってきたな~ってあらためて思うし、やりたいこと全部やったんだな~って思ったら恵まれてて幸せだなとビックリ!先月、仕事の更新の面接を受けるという従姉妹が、請負元が変わるから何か面接時のアドバイスを…ってメールをしてきました。彼女からみると、私は失敗知らずに見えたらしいの。そんなわけないじゃん?でも、はたからそう見えていたならありがたいし、嬉しいです。

とりあえず、「面接は自分が見られるだけじゃなくて、こっちも相手を見て判断してやろう!って気持ちで臨むとよいのでは?」と返信しておきましたよ。だって仕事も相性だもん。お見合いと一緒。たいてい「これはイケルな?」って時は、実は面接中から分かります。逆もまたしかり。あかんわ~って時も、わかる(笑)。

では、以下、長いので畳んでおきます。ご興味あるかたは、「続きを読む」からどうぞ。

コンビニ、雑貨屋、本屋さん、事務


初めてのお仕事は多くの人がそうであるように、私も高校生の時のアルバイトです。一番はじめはコンビニのバイトをしました。時給は640円だったかな(笑)。コンビニでは、幼稚園から小学校の時に仲良くて、中学で疎遠になったお友達と再会し、毎回おしゃべりしながら働けて楽しかったです。それから身内が本屋さんで働いていたので、学校の夏休みには、棚卸しのアルバイトをしたりしてました。これはちょっとした、お祭りのようで楽しかったです。

ギフトショップのような雑貨屋さんでも、アルバイトをしました。オグリキャップやごまちゃんのぬいぐるみ全盛期。バブル真っ只中でしたので、休日に出勤したりすると、社員さんと営業に来てた他社の担当さん達とランチに出たりして、ごはんをご馳走になったりしたものです。楽しかった。ラッピングもバッチリ習い、学校の休み時間とかにも、筆箱包んで練習したりしてました(笑)。それが楽しすぎて、あっさり高校はやめてしまいました。16でやめて、その後はずっと働いてました。

大検は2回受けて18で取りました。(同級生がちょうど大学一年生のタイミングです。)

が、その頃は絵の学校に行きつつ、本屋さんで働いていたので、大学に行こうとは思いませんでした。絵の学校の帰り、週に数回だけ叔母の働いていた恵比寿の会社でアルバイトをしたこともあります。パソコンのデータをプリントアウトしたり、回路図を書くのを手伝ったりしました。1枚なにかをプリントアウトするのには、まだまだ時間と手間がかかった時代でした。私のことを気にかけてくれてた叔母は電話で、「うちの会社に毎日働きにきたら?」と言ってくれましたが、あてもないのに「私はレコード屋で働くから」と言って断りました。

レコード屋、喫茶店


16から地元の輸入・中古レコード屋に入り浸っていました。ロックやブルースのレコードを買っては売り、買っては売り。ライブに行ったり、レコードを買うために働いていたようなものです。高校の時も放課後着替えては、都内のライブハウスに行っていました。

そして19の時、入り浸っていたレコード屋さんでアルバイトの募集を見つけ、応募しました。ニコニコ顔の店長さんは「本屋の子がくるよ」といって、あっさり雇ってくれました。「レコード屋で働く」が叶った瞬間でした。この頃の本厚木には、ディスクユニオン、ウェーブ、HMVのすべてがありました。タハラ、すみや、ほていや、なども。

家を出たかったので貯金をしてました。その貯金がたまる頃、そのレコード屋さんのつてで、東京に出ました。21でした。渋谷の宇田川町の交番脇の、ジャズのレコード屋さんで働きました。大音量で、四六時中ジャズを聞きまくる生活でした。毎日大量の買取の処理に忙しく、セールをやれば開店前から長蛇の列…という90年代でした。セールの日はハードバップでお客さんの購買欲をあおる…なんて感じの、エネルギッシュさが刺激的な日々でした。ジャズは「お上品」なんかじゃないってことがよく分かった(笑)。

休み時間には百軒店のスイングに行って、マスターにお煎餅を出してもらったりと、孫のように可愛がっていただきました。その後もマスターとは、昼間よくプロントなどで会うと、相席しておしゃべりしました。覚えていてもらえるのが嬉しかったです。カンカン帽やステッキを持った、粋なおじいさまでした。(スイングは映像専門のジャズ喫茶でした。)

ジャズのレコード屋で働いていた時は、少しだけ、夜に駅前の喫茶店のアルバイトの掛け持ちもしました。そこで夜はご飯を食べてました(笑)。喫茶店とレコード屋さんでは、働く人もお客さんも全然違う雰囲気の人たちで、両方ともとても楽しかったです。

ジャズのレコード屋で出会ったボーイフレンドと、6年だか7年、一緒に暮らしました。一緒に暮らし始めてしばらくして、私は仕事を変えました。

イギリスのアンティークの本棚と、
リプロダクションのランプ

古着屋、インド屋、アンティーク家具屋


10代の頃から古着が好きだったので、古着屋で働きました。原宿・渋谷・代官山と毎週持ち場が変わる仕事は楽しかった。ここで、洗濯・アイロン・衣類の修理を習いました。J-Waveを聞きながら針仕事をしたり、アイロンがけをするのは店に出るより楽しかったです。でも、女の子にサイズのぴったり似合うジーンズをみつけてあげるのも得意でした。リーバイス501全盛期です。この頃うすうす、自分はもしかすると、1対1接客が得意かも?と気づきはじめました。アメリカン・カルチャーとお洒落な人がいっぱいの職場はこれまた刺激的で、とっても楽しかったです。

だけど、時給を100円アップしたいがために、インドものの雑貨・衣料品店へ転職しました。ここも原宿・渋谷・吉祥寺と時々持ち場が変わりました。渋谷には店が二つあり、10代の時は、この店も好きでよく来てました。そのうち週に一回だけ渋谷の小さい方の店で、休日の交代要員として、「ひとり」で店番する機会ができました。自分でいうのもなんですが、その日はよく売れました。この頃には、「自分はひとりでじっくり接客するのは得意らしい」と気づきました。

そして「ひとり」で店番する必要のある、アンティーク家具屋に転職しました。年俸制の正社員でした。25才になりました。月給を年の数よりいただいてました。まわりは30代以上の人たちでした。一番年下ということで、はじめから「さなえちゃん」と呼ばれ、可愛がっていただきました。

アンティーク家具屋さんは、渋谷の大型インテリア専門店の1階に、テナントとして入っていました。単価が10万円以上するものが、毎日そんなに売れるのかな?と心配でしたが、フタをあけてみると不思議なほどゼロという日はありませんでした。月300万ベースの店を500万に引き上げたので、社長から「この子がよく売るんだよ」と言われて嬉しかった。一生やってもいいと思えるくらい好きな仕事でしたが、ディベロッパーの方向転換で店はなくなりました。閉店セールはひと月で1000万になり、本当にお祭りのような騒ぎでした。ここで仕事をしていた時は、「これは私が唯一勝てるゲームだな」と思ってやっていました。だからすごく楽しかったです(笑)。(唯一、の部分は当時の気持ちですけどね。今は「唯一」だなんておもいません。ほかにもいろいろあるはず、笑)

その後すこしだけ直営店にも行きました。自転車を40分こいで通いました。けっこうしんどかった(笑)。正直、直営店ではなかなか家具は売れず、併設のカフェの仕事もしました。カフェのお仕事も楽しいものだなと思いました。犬とたくさん出会いました。

アンティーク家具屋の仕事をやめる時には、お客さんが家に食事に招待してくださいました。シングルマザーのキャリアウーマンの方でしたが、再婚してアンティーク家具で部屋の中をまとめての再出発でした。職場のチームの方々とのお祝いの会食に呼んで下さり、「仕事やめるなら、私たちのところに来ない?」と誘ってもくれました。大変ありがたかったです。でも、私はもう次の仕事を決めていました。

書店員から事務職への転換


ちょうどその少し前、渋谷に超大型書店が登場しました。私はそこにアルバイトとして転職しました。以前の仕事の行き帰りに、よく立ち寄っていたからです。お給料はもちろん大幅ダウンですが、賑やかで活気ある環境で、大勢の人と一緒に働くのは楽しかったです。ここで出会った友人とは、今も年賀状のやりとりがあります。

その後、同じ書店の契約社員に応募して、事務職に方向転換しました。個人用のパソコンとインターネットが一般的になりはじめているのを感じ、パソコンで仕事ができるようになりたいと思いました。さらにこの頃、東京の街に外国人の姿がみるみる増えてきているなと感じ、プライベートでは外国語を習い始めました。最初は遊びでイタリア語を、次は英語を。シフト制の仕事でしたが、チームで順番に休みをつくり、社員もアルバイトさんも、それぞれ長期里帰りや、海外旅行も楽しみました。(私はイタリアへ行きました。)

そのうちのひとり、その頃は大学生アルバイトさんだった女性とも、いまも年賀状のやりとりをしています。彼女は二児の母になっています。

携帯用のメイクブラシ

テレオペ派遣、美容部員


29の時、実家に戻り地元で働くことにしました。

派遣に登録し、流通業の短期のテレオペ(お中元の問い合わせ業務など)などをやりながら、スキンケアやメイクのお店でも働きました。メイクのお店では、お客様にメイクをしてあげるのがとても面白かったです。また、勤務していたお店の方針で、月一回ボランティアに行くというのがあり、デイケアの施設にも一度だけ行きました。ほとんど見ていただけでしたが、これは正直、私にはできない大変なお仕事だと思いました。あとで聞いたら、たまたまその日は、普通はボランティアの人は行かないような、重度の方を受け入れている施設に配属されたとのことでした。「あっちに行ったの?大変だったでしょう?」と言われました(笑)。

ワード、エクセル、英語を学んで派遣登録しました

製造業事務、カレー屋、英文メール書き


その頃、テレビでは小柴さんと田中さんのノーベル賞受賞ニュースで湧いていました。私は田中さんのマイペースな感じがとても好きだな~と思い、毎日毎日ニュースを見てました。

すると、新聞の折り込み広告に、田中さん勤めていらっしゃる会社の、臨時社員の募集をみつけました。厚木にも支社があったのです。さっそく応募し、めでたく雇っていただけました。ここは、頭のいい人たちがゴロゴロいるようなところで驚きました。頭がいいっていうのはね、学歴だけのことじゃないです。もちろん高学歴の人もいっぱいいたけど、現場の人もね、すごいのよ。ちゃんとそれぞれ、これならこの人っていうのがある。んで、「なんとかならない?」って相談されると、「ん~?しゃあないな~」とか「おっしゃー、まかしとけ!」とかってテンションの差こそあれ、ササッとなんとかしちゃう。パートさんからの相談でもね、治具とか一瞬で作っちゃったり。カッコいいよね~、こういうの。(どこの会社でもたぶんいるのよ、職人肌のこういう人!)

そしてね、居心地もとっても良かったです。今時、給湯室がいい味出してたんですよねぇ。毎朝みんなが必ず顔出す場所って感じで。どの人も話は面白いし、仲はいいし。任期はたったの1年でしたが、その後も子会社さんの所属で働き続けられるように手配してくださったりと、とても良くしていただきました。

そして、ここでは「結婚する」ということも意識することができました。東京では同世代はまだまだ独身が多かったのですが、地元に戻って働いたら、ほとんどまわりは妻帯者ばかりだったので驚きました。

あ、それから、この頃、掛け持ちでバングラデシュ人の方のやっている、カレー屋さんでも働いてました。外国人と働くというのを体験してみたかったってことで。まかないのカレーやナンは絶品でした。それから、自分達のラマダン中にも日本人に食べ物を提供するという、「商人魂」も見ました。ラマダン中の祈りのスケジュールや、バングラデシュでのお見合い方法など、いろんな話も聞かせていただきました。

再び派遣のお仕事に戻るとき、先の職場の印象がとても良かったので、製造業の事務職を希望しました。時給だけれど、GW、夏休み、冬休みがしっかりあり、社食もあって、制服もある(出勤時の服装は自由)などをメリットととらえました。

そして、そのうちのひとつで、もーりーさんと出会いました。

また別の製造業さんでは、英語を使うお仕事もさせていただけました。そこではオーストラリア人の英文チェッカー氏がいて、ほとんど先生のようでした。一番、感謝してる英語の先生!(本業はトラアイスロンらしかったです。それに日本語も話したみたいだけど、日本語は一度も聞いたことなかったです。)翻訳部の当時の職制さんからは、結婚後にまた働きたくなったら、派遣会社ほどは時給はだせないけど、いつでも働きにいらっしゃいと言っていただきました。別の職場の方だったのに、とても嬉しくありがたかったです。(結局、引っ越しが多かったので、仕事には戻っていませんが。)

厚木市の図書館のカード
このキックオフの時の、お仕事をしました

自治体の短期のお仕事


結婚してからは、いとこが働いている図書館で臨時の仕事があると聞き、それをやらせていただきました。地元の市役所のお仕事で、図書館の貸出カードのオンライン化への切替え業務です。利用者さんへの案内とシステム入力という、接客と事務職を足したような内容でした。ここで一緒に働いていた友人とは、今も親しくおつきあいしてもらっています。(この職場の飲み会にはもーりーさんも参加したりしてたので、友達にもいまだに「もりちゃん」とか呼ばれています・笑)

また、この時は車椅子の方とも一緒に働いて、彼と休憩時間にランチに行ったり、仕事のあと、車で家まで送っていただいたりもしました。車椅子ユーザー仕様の、真っ赤なスカイラインでした。

大学の先生のお手伝い


また、そのお仕事が終わった後は、一緒にやっていた友人からの紹介で、某私大の事務のお仕事をさせていただけることになりました。はじめは教務課にお世話になりました。ちょうど仕事始めが四月でしたので、当時の部長さんが私が大学に入ったことがないのを考慮してくださって、新入生と一緒にオリエンテーションを受けました。これはなかなか面白かったです。

ここでの後半は、太陽熱利用の研究がご専門の、I 先生の研究室でお世話になりました。先生の研究費からお給料をいただいていたので、ほかの事務の方より時給がよく、これも大変ありがたかったです。内緒ね、って言われてましたけど(笑)。

お仕事は、先生の雑務と外国人研究生の受入の手伝いなどをしてました。もーりーさんとのアメリカ生活から帰国したばかりの時のお仕事だったので、英会話で過ごすのも楽しめて良かったです。外国人研究生はムスリムのかたでしたので、時間になると部屋の片隅で、静かにお祈りをしてました。「そこにそのまま居てもいい」とのことでしたので、私は変わらず自分の席にいて、いつもそのまま仕事を続けていました。

また、携帯を持ってなかったガンコな先生にとうとう携帯を持たせることに成功したので、まわりの事務の方からは喜ばれました(笑)。それから、国際会議のための国内出張で、同行の学生たちに安いホテルをとってあげたりしたのも喜ばれました。なんと後から先生まで同じホテルに変更し、ほかの研究室の先生にも後日「安さ」を羨ましがられたり(笑)。

でもこのお仕事は、実は途中から精神的にかなり厳しいものになりました。先生ご自身が末期癌だと分かったんです。頭は冴え続けているのに、肉体は滅んでいく…というのを目の当たりにしていた感じでしょうか。タイミング的には、その後、私はもーりーさんの九州転勤でそのお仕事をやめることが決まっていました。そして引っ越しの済んだ数日後、先生もお亡くなりになりました。前日まで研究室に出られていたそうです。65才でした。

生前、先生は私の勤務の最終日に、送別会と称して大学の近くのレストランで、研究室の学生さんやほかの事務の女性方を招いて、ランチパーティーをしてくださいました。外国人研究生のためには、ちゃんと彼の宗教に合わせたお料理も用意していたり。先生ご自身はもうご馳走は食べられなかったにも関わらず、華やかなランチパーティーでした。あれはきっと先生なりの、生前葬のようなものだったんだなと思います。「私のソーラーハウスも見ていただきたかったんですけどねぇ」と、先生は関西弁でおっしゃいました。

全部、面白かった!(笑)


以上が私の、10代から30代までのお仕事遍歴です。

それから今に至るまで、私はいわゆる「お勤め」をしていません。でも、わが仕事を振り返って見てみると、いつも好きなことばかりをさせていただいたし、本当にとても恵まれていたな~と幸せに思います。

そして一方で、16才で自分の進路を定め、工業高校の自動車科に入り、その後ずっと自動車メーカーに勤めてがんばっているもーりーさんのような人を、すごいなぁと尊敬している私です。ひとつの場所でずっと頑張れるのってすごい。私にはできなかったことです。だから、尊敬しています。早い段階で未来を見定めているところも、本当にすごいなぁと思います。

私たちは一見すると正反対の生き方。でも二人とも、その場その場の、その時おかれたところでたくさんの人と出会い、ステップアップさせてもらっているのは同じかなって思います。



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